文夫君は、大阪にはしばらくいたようだが、そのうち音信が途絶える。
そして、何年後かに広島にいるという連絡が入ってきた。
どうも、広島にステーキの店を開いたという話である。
そして、どうも、同棲している女性がいると言う。
私は既に東芝に入って、川崎に来ていたので、当時の文夫君のことは、帰省した時に聞く話しかなかった。
その女性は律子さんと言う。
律子さんが登場して、なぜか、文夫君は厚狭に帰って来ることが多くなっていたようだ。
そして、収入も安定して来たようで、ある時に、親父に100万円の大島紬の着物をプレゼントしたらしい。
このことが、また、兄姉の中で、物議を醸した。
あんな見栄を張らなくてもいいのに、と。
要するに、文夫君は生来の見栄っ張りなのだ。
自分の置かれた状況を正しく判断できないのだ。
この後、私は何度か厚狭の家で何度か文夫君と律子さんに会っている。
この時期が、文夫君にとっていい時だったのではなかろうか?
私の結婚後、私の住んでいた横浜の団地にも、文夫君は出張のついでに寄って一泊したことがある。
私が30歳に書いた佐藤家の歴史にも、文夫君の悪行のことは書かれていたし、文夫君のことを私がどう感じていたかも書いてあった。
それを読んで、文夫君は何かを感じたようだ。
しかし、そんないい時期も長くは続かなかったようだ。
彼が40歳の頃に、病気になった。
確か結核だったと記憶している。
そして、その時期に愛する母親が亡くなったのだ。
私は、電話で、母親の訃報を文夫君に知らせたら、電話の向こうで泣いていた。
自分も葬儀に出席するというので、私は、広島の病院から母に別れを告げるように忠告した。