横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

親父、お袋がいなくなれば、兄弟姉妹の関係も少しずつ薄れてくる。
まして、距離が離れていればなおさらのこと。

文夫君が、律子さんと別れたということも聞いた。
どうも、広島にいることはいるらしいことも。

2014年のことだったろうか、突然、啓一兄から手紙が届いた。
手紙の内容はこうだ。
文夫から添付の手紙が届いたことが書かれてあった。
そこにはあまり注釈はなかった。
添付された手紙は文夫君からの手紙のコピーであった。
啓一兄は、兄弟すべてにこのコピーを送ったのであろう。

文夫君の手紙の内容をここに記す。

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拝啓
秋の季節に入りました。
皆様にはお変わりなくお過ごしのことと、私、勝手に推測いたします。
私が貴男様に手紙を差し上げることは初めてだと思います。
さぞ、驚かれたことでしょう。
私も出すべきか相当悩みました。
これが最初で最後の手紙と思って読んでいただけたら本望です。
私の事は素手のご承知の事と思いますが改めて簡単に説明いたします。
そして、最後にこの手紙の趣旨を書き述べます。
まず、兄弟絶縁の件からお話し致します。
親父が亡くなる半年前の事でした。
糖尿病で体も一番弱っている時でした。
夕食時、私が用意した食事を美味しそうに食べた一時間後位でした。
徐に話し始め、その時の親父の言葉をそのまま表現します。
①親父談:今からお前に死ぬ前に一言、言っておきたいことがある。酷な話と思うが俺と約束してくれ。また、絶対守ってくれと言われた。私も誓いました。
②俺もそう永くはない。俺が死んでもお袋が生きている間は何回も帰って来い。但し、お袋が死んだら、お前は二度とこの家には出入り一切するな。また、兄弟の付き合いは絶対するな。何故だかは、お前には判っていることと思う。俺と約束できるかと言われますので、私も納得して、親父に誓いました。側で、お袋は泣きながら聞いておりました。そして、四月に親父が他界しても時々お袋を見舞いがてらに帰っておりました。

その後、私自身、別居生活に入り、同時に入院生活になり、入院して何日かして、夜八時頃だったと思います、栄次から電話がかかってきました。
母危篤とのことでした。
翌日の午前中、また、電話があり、その時に死んだと告げられました。
その後、入院中、国民金融公庫の保証人になってくれた私の友人、森本氏と宇部支店に参りました。
その時に兄貴様より、親父もお袋もお前が殺したようなものだと言われました。
まさしく、その通りで、私から何の返答もありませんでした。
以上粗筋を書きました。
何故今になってこのような手紙を書く気になったかと言いますと、私も永くないような気がします。
健康時70キロあった体重が一週間前銭湯で計りましたら44キロ。
病名は判っている。
ただ死ぬ前に一言だけ兄貴そしてお姉さまには多大の迷惑をかけました。
特にお姉様は佐藤家に嫁いできたばかりに、私の様な人物がおり、また、兄妹にも本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
二度と皆様にお会いする事もありません。本当にありがとうございました。
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私は、読んでいて涙が出て来た。
しばらくは、机に座って呆然としていた。
夜、寝るときもボンヤリと、昔、カツサンドを買って来てくれた文夫君や、大阪で説教した時のことを思ったりしていた。

しかし、数日後、私は、はたと考えた。
まだ、兄貴は生きているんだ、と気づき、私は早速、文夫君探しを始めた。
手紙の投かん場所が広島県廿日市市なので、まず、廿日市市にある町内会の会長に片っ端から電話をした。
同時に、民生委員にもコンタクトを始めた。
「佐藤文夫、あるいは、辰巳 浩という70過ぎの男で、病院に入院している・・・」
最初は、私の話を怪訝そうに聞いていても、ほとんどの会長や民生委員はチャンと調べてくれた。
一週間経って、電話で居ないと連絡もあった。
廿日市市内の病院にも片っ端からコンタクトをした。

宮島は廿日市市にある

しかし、とうとう、見つからずじまい。
あれから、5年は経っている。
兄貴の手紙の様子から考えて、もう、この世に居ないのではないかと思っている。

まだ、親父が生きていた頃、お盆に帰省した時、庭でみんなでビールを飲んでいた。
私と、亡くなった久夫兄とで、たまたま、文夫兄のことが話題になった。
あれほど、人の悪口を言わない久夫兄が、こと文夫兄のことになると、大文句である。
私は、そうは思わない、と主張した。
ひょっとしたら、私が文夫兄の役割をしていたかも知れなかった、と言った。
所詮、人には役割があり、佐藤家全体の繁栄?のためにはそんな役割をしなければならない人も必要だったのだ、と主張した。
また、人の歯車は一旦食い違い始めると、なかなか元に戻すことはできないのだ。
そのことを見落せば、どんどん深みにはまっていくのだ。
それを見落とした、親の責任は免れないとも言った。
すると、我々の後ろで、その話を聞いていた親父は、
「そうかもしれない、俺は自分の責任を重々承知している。しかし、みんなを食わせることで、精一杯だったのだ・・・」、としみじみ語ったことも思い出す。

私は、今こう考えている。
人は、その存在自体で、自分の役割を果たしている。
人は決して、自分だけで生きているのではなく、チームワークで生きているものである。
たまたま、縁あって、息子の存在になったり、兄弟の存在になったり、叔父、叔母の存在になったりしているが、これは集団で生き残るために皆が存在しているのだ。
その一人が死ぬことにも何かの意味があるのだ。
残念ながら、そのことが自分達には理解できないだけなのだ。

そういうことで、あえて、この”三男文夫君の生き様シリーズ”を書いた。
縁あって、存在した文夫君にお別れを言いたくて、書いたもの。

文夫君、さようなら

高野山金剛峯寺の根本大塔

合掌