横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私が東芝を受けに行ったのは6月下旬。
あまり乗り気がしなかったことを記憶している。
午前中に物理の問題と英語。
物理の問題は2題。
熱くて止まっている球と動いて冷たい球について、物理的な違いを述べよという問題と20メートルのメジャーと双眼鏡がここにある。これらを使って、島の高校生に地球が丸いことと動いていることを説明せよという問題。
英語はA4の1ページの英文翻訳の問題。
英語は難なくできたが、物理はまるで駄目。
午前中に面接をやる予定が、私の番は12時を過ぎてしまい、面接官はたったの四人。そこに並んでたテーブルから判断すると多分十人位居たのではないかと思われた。
私への質問は、
「佐藤さんは、どちらかと言うと、部屋で本を読んでいるより、外で動き回る方がいいのではないですか?」とやってきた。
私は、こう来たか、と思い、次のように返した。
「一見、そう思われることもありますが、必ずしもそうではありません。部屋で本を読むことも好きです。」
すると、次は、
「佐藤さんは、どうして東芝を選ばれたのですか? また、東芝では何がやりたいのですか?」
と来た。私は、
「東芝を私に勧めたのは、教授で、まだ、私の中では何をやりたいのか考えておりません。ところで、東芝は家電をつくっていることくらいはしっていますが、他に何を作っていますか?」
すると、面接官が説明してくれた。
そこで、私は、医療機器の事業が面白いと思います、と答えた。
その時の私は、全くの無欲だったから、面接官も普通のおじさんとしか見えなかった。
多分、その受け答えが評価されたのであろう。
東京から戻って、三週間目辺りで教授から呼び出しを受けた。
教授曰く、
「まさか、君が受かるとは、正直思わなかった。」
「佐藤君、君が通って、大学院の片山君が落ちたんだよ。君は一体全体どんなてをつかったのかね?」
私は、
「多分、面接官が変わった人だったんですよ」と答えた。
実のところ、東芝が通っても、私の内心は決して嬉しくなかった。何故なら、私の頭の中には、まだ、世の中に出て稼がなければという気持ちが無かったから。
ただ、親に対しては、四年で卒業しなければ申し訳ないという気持ちは強かった。
親は私が東芝を合格したことを非常に喜んだ。
三月の卒業式には、二番目の姉が母親を連れて行くと大騒ぎ。
結局、卒業式は予定通り三月にあって、姉とお袋は岡山に来たが、私は早々と下宿を引き払い、荷物を東芝の寮に送った。
私も卒業式前に横浜に移動した。どうしても私は卒業式には出たくなかったからだ。
私の所属した物理学科の同級生は全部で27人。一人自殺し、一人は転部したため、25人。大学院に行った者は3人程度。就職したものは多分5人程度。即ち、17人は留年なのだ。
四年間共に大学闘争を闘い、結果として、私は四年で出て行くことに、何か後ろめたさを感じていたのだ。

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