東芝の入社式のことは、あまり、記憶にない。
630人もの新入社員は、東大、京大他各県にある国立大学から来ていた。早稲田、慶応の他、有名私立からもずらりといた。
私は横浜の日吉寮に入った。
東芝という会社に入ったことより、各地からの人達と話ができることに感動を覚えた。
三ヶ月の研修を終えて、私は医用機器事業部の希望を出し、そして、配属は川崎市の溝の口にある玉川工場となった。そこでも、二ヶ月の研修があり、最終配属の部と課が決まるのだ。
私は、物理学科卒業ということで、治療機器の部に配属が決まった。
しかし、私にはそんな自信は無いと正直に技師長に申し入れをした。その技師長は頭の柔らかい人で、それじゃあ、コンピュータをやれと言われ、私は承諾した。
工場という所は厳しい所で、製品開発をどんどん担当に任せて来る。出来ないとはとても言える雰囲気ではなく、課題を自らが解決していかなければならない。
大学では電子回路など見たこともない。しかし、周囲の先輩達は自分の世界に入り、悪戦苦闘している。
必要があれば、実験室にこもる。
当時は半導体から集積回路のICにどんどん代わって行く時期で、先輩のエンジニアも右往左往していたことを覚えている。
私の課には、五人の設計担当がいた。
一人は早稲田の電子工学部卒、一人は慶応の化学の修士卒、一人は東北大の電子工学部卒、一人は横浜国大の化学卒、もう一人は大阪大学の生物卒。
みんなはそれぞれ自分の担当をやっているだけで、隣の仲間を助けることもしないし、余計な口も叩かない。
新入社員の私には、早稲田卒の人がチューターになってくれ、相談相手になってくれた。
私は電子回路をゼロから自分で勉強した。土日は新宿の紀伊國屋に出かけて、いい本を探し、喫茶店で勉強した。
そして、工場では、実験室に籠った。
この時期は必死だった。そして、半年後には、コンピュータの勉強の為、東芝の青梅工場に行くことになった。
青梅工場では、コンピュータの基礎を徹底的に勉強出来た。この研修により、徐々に自分に自信がついてきた。
私は当時三日かかった人間ドックをコンピュータにより一日で終わるシステムにすべく、検査データを即座にコンピュータに送る仕事に携わった。
私の机の上には何枚もの電子回路図面があり、休暇の時ですら、頭の中にある電子回路図面を追いかけている状態だった。
ところが、ある日、私より一年先輩の大阪大学生物科卒の若松さんが、私に話し掛けてきた。
「佐藤さんは、一年間、海外に行ってみないか?」
本当に突然の話しで私はびっくりした。