横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

突如、中南米から北米担当に変わった。
折角、スペイン語も上級クラスまで行ったところで、方向転換。
今度は英語を本格的に勉強しなければ、仕事にはならない。
アメリカ人の英語は速すぎる。
初めてロスアンゼルスに着いた時は、空がカラッと晴れてとても気持ちが良かったことを覚えている。
ただ、何をしに行ったのか、自分のミッションは覚えていない。
即ち、アメリカのビジネスは、アメリカで全てを決めており、東京のスタッフはサポーター役だけ。
中南米の場合、担当と言えど自分の存在は大きく、それなりの権限はあった。
アメリカの担当は、アメリカからの指示を受けて、工場に繋げるだけ。
ところが、工場はもうその指示を知っている。
自分の役割は一体何なのだろうかと疑問に思う日々。
ひょっとすると、部長ですら意見が通らないことすらある。
アメリカの現地法人は東芝アメリカ(TAI)。そこの社長は本社の専務取締役クラス。
その中には、それぞれの事業部が属している。
ある時、メディカル部門の社長にケネディという男が採用された。
彼の年俸は6000万円。当時の事業部長の年俸は3,000万円はいっていなかっただろうから日本人には破格の年俸であった。
参考までに、当時の私の年俸は300万円はいっていなかった。一方、東芝に英会話を教えに来ていた、アメリカ人の月給は60万円。年俸にすると720万円。
そのケネディ社長が来日した際、英語でプレゼンテーションをした席に私は出席したことを覚えている。
何やら、東芝のアメリカ戦略の貧弱さを例を上げて説明した。また、製品がほとんどアメリカのマーケットに向いていないと主張した。
本気でやるなら、ゼロから戦略の立て直しをしなければならないと捲し立てた。
そこに医用機器事業部長が聞いていて、分かりもしない英語にいちいち頷いてみせ、ニヤニヤ笑って握手をした光景を見て、こりゃあ駄目だ。
堂々と今なにを言ったか通訳させ、色々と質問をしなけりぁ、と私は思った。
アメリカ担当として良かったのは、アメリカの各種医学学会で併設される展示会に行けたことである。
初めて行ったのはテキサス州ダラスで開かれた北米放射線学会だった。

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