横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

初っ端から、星川とやり合ってしまったが、その後は、星川の方が私に対し、距離を置くようになった。
北米の仕事は面白くはなかったが、各種の展示会で色々な都市に出張出来たことには感謝している。
中でも、1981年サンフランシスコでの世界産婦人科学会併設の展示会は、私にとって忘れられないものとなった。それどころか、その時に会った人によって、私の会社人生が変わってしまったのだ。
この物語はこの人を思い出しながら書いている。
しかし、この人については、最後に紹介することにする。
それまでは、工場でガムシャラに勉強し、輸出に関して学び、スペイン語も勉強した。
ところが、北米担当で仕事の虚しさを経験した。
自分の居場所を見つけることができなかった。
しかし、北米担当になって、唯一良かったのはアメリカ人に会い、英語がブラッシュアップできたことである。
北米担当は三年だった。
この時点では、主任というタイトルになっていた。
急遽、アメリカ駐在員が帰国しなければならないので、私は、どこかに行かなければならなかった。
その時の部長は、ブラジルのTMBの社長の大川だった。
大川は、私を呼んで、二つの選択を提案した。
一つは、東南アジア担当。もう一つは、業務担当。
私は迷わず、業務担当を選択した。
大川は私の選択に驚いた。なぜなら、国際部にいて営業より業務の仕事を選ぶ人間などいないからだ。
私が選んだのは、たまたま、アジア担当課長が小杉という最も嫌った人間だったからである。

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