横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私は業務担当主任になった時、心ない連中は、業務担当は残業せずに定期の時間に帰れていいなあ、と近寄って来て皮肉を言う。
一般的には、北米担当は花形のポジションで、業務は用無しポジションであった。
当時の業務の主な仕事と言えば、販売見込みの集計とか、在庫チェック、代金回収などの管理であった。
ところが、そこの仕事は既に一人のやり手の女性が牛耳っており、手出しはできない。
立場的には、私が主任でその女性は私の部下にあたる。しかし、その女性の父親は東芝の中でも高い地位にいて、部課長はその女性を庇護する立場にあった。
その女性の名前は矢代。
ある日、八代が私の所に来て、相談があると言う。
別室に入って、八代の話を聞くと、今後の仕事のやり方を聞いてきた。一応、私が上司に当たるから、私が何を考えているかを確かめたかったのだ。
私は、「今まで通り、君のやり方で仕事をすればいい」と言うと、八代は、「佐藤さんは、何をされるのか?」と念押しをしてきた。
私は、別のことを考えているから、とわざとはぐらかした。
私は、大川部長に、一年間、東京女子医大に通わせてくれと話をして、了解を取っていた。
東京女子医大には、木曜日の午後と土曜日の午前と午後、通学した。
毎週木曜日は昼になったら会社からタクシーで東京女子医大に通った。
医用機器を取り扱うためには、どうしても、医学知識が必要と以前から考えており、この業務担当のこの時期が最適と考えていたのだ。
それ以外の時間は、一人机に向かい、フローチャートを描き始めた。
昔はコンピュータのエンジニアゆえフローチャートを描くのはお手のもの。
周りは、こいつは何を始めたのかと、変な目で見ていた。
特に、業務の課長の木蓮と矢代であった。
矢代が木蓮に、「私たちは販売見込みで忙しいのに、一体、佐藤さんは何をしているんですか?」と迫り、木蓮は仕方なく、私に聞くという格好。
私は、木蓮の問いかけには、「そのうち、目処が立ったら報告する」とだけ言っておいた。
私は大川部長だけには私が考えていることを伝えていたから、何の問題もなかった。
大川部長とはブラジル担当の時の私のやり方を知っていたから、彼は私を信用していた。
ある日、矢代の下で、顎で使われていた羽田が、私のところに来て、何か手伝わせてくれと言ってきた。
彼は先読みのできる男で、佐藤は何か面白そうなことを考えていると思ったのだろう。
私は羽田には、私のプランを開示した。

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