エジプトにはLakah(ラカー)という男がいた。
初めて、この男に会ったのは、ベルギーで開かれた世界放射線学会(ICR)の時。多分、1982年だったのではないかと思う。
学会に併設の展示場に体の大きな男が3人現れ、私に近づいてきた。
「あなたがMr.Sato?」と聞く。
そこには、日商岩井の猪俣もいた。
この時まで、私は猪俣は知らなかった。
猪俣が私に、ラカーが昼食を私としたいと言っている旨を告げた。
私はオーケーして、指定のレストランに行った。
この時ラカーは20代前半だったであろう。
まだ、右も左も分からなかったのであろう。
その時の強い印象はなかった。
そして、それから6年くらい経ったであろう。
私が市販グループの担当課長になった。
そこに、日商岩井の猪俣から、エジプトに行ってくれと連絡が入った。
私は行くことに同意した。
エジプトに入った翌日には即、ミーティングに入った。
猪俣氏に、いつもの通りでいいから、ミーティングを進めてくれと頼み、私は横で見ていた。
猪俣氏が一年の販売予算を作っていくのだ。
猪俣氏とラカーが機種と数量と東芝への購入希望価格をまとめていく。
会議は夜の8時頃佳境に入る。
何故なら、その会議が終わるとラカーの家で食事にする予定だったから。
終わりかけたところで、どうして、レントゲン装置も超音波診断装置も安いものしか売らないのか❓と聞いたら、二人ともポカンとしていた。
そして、猪俣が聞いてきた。
CTを売ってもいいんですか?
これからはCTを売らなければ競争に負けてしまいますよ。
CTだけではなく、循環器装置やMRIも売らなければ。
この時、ラカーは変わったような気がする。
ラカーには、別の場で、高額商品を売らなければ、サービスで利益を稼ぐことが出来ない。
また、高額医療機器メーカーは世界で4社しかない。
そこで、勝ち抜けば保健省(MOH)のビジネスも牛耳ることができる。
この説明を私から聞いて、目からウロコ状態。
それから、数年後、ラカーはCTや循環器装置、MRIをボカボカ売る人間に変わっていったのだ。
その夜は、ラカーの家に行くどころか、話が弾み、結局オフィスを出たのは夜中の12時。
ホテルで猪俣とサンドイッチを食べて寝た。