横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

ペルシャと言えば、アラビアンナイト❓
日本では、千夜一夜物語と呼ばれてる。
ペルシャとイランが同じ国?と驚いている人もいるだろ。
イランという国は一口では語れない。
イランの歴史は紀元前3000年頃に始まる。
その後、アーリア人が到来し、王朝が建設され、やがてアカイメネス朝が勃興。
しかし、アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされた。
それからはローマから、モンゴルから、あるいはロシアからと色々攻められる。
ようやく、1940年代に国民戦線を結成したモハンマド・モサッデクは、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任。
モサッデグ首相はイギリス系アングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行したが、1953年アメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画によって失脚させられ、石油国有化は失敗。
このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝の皇帝(シャー)としてモハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。
その後、シャーは白色革命の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進。
しかし、シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイラン・イスラーム共和国が樹立された。対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカとは、1979年のアメリカ大使館人質事件で敵対関係。レバノンのヒズボラ、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、中東では緊張関係ができている。
多分、1986年の春だったと思う。
3月の終わりに、突然、イランの保健省のミッションが私に会いたいと電話で言ってきた。
レントゲン装置を約200台買うためにやってきたと言う。
彼らは既に島津製作所からは見積は取ったことを正直に話してくれた。しかし、製品の評価は東芝と比べものにはならないから、東芝から見積を頂きたいと言うのだ。
直ぐに翌日、見積書を提示した。
彼らとのミーティングは決まって夕方の5時から。
私は、スタッフを一人連れて、彼らが滞在している新宿の京王プラザホテルに出向いた。
彼らの一人が保健省の責任者らしく、他に四人を出席させていた。
価格について、値下げ要求をして来る。私は、あまり、交渉はしたくないのです、正直ベースで妥当な価格を提示して、値下げの要求には一切応じない。
そして、午前1時に話は決裂。我々はタクシーで家に帰る。
家に着いたら、もう2時。
そして、また、午前7時には家を出て出社。
これがなんと6日間続いた。そして、最後の夜、値下げをしなければ、明日、我々は帰国する。
そうなると、島津製作所に発注することになるが、それでもいいか?と念押ししてきた。
私は残念ながら、それもやむ終えまいと答えて帰宅した。
午前2時である。
翌日は4月1日。
朝起きたら、既に8時を回っていた。
その日はたまたま、家内も寝てしまって会社に着いたら、9時半を過ぎていた。
部長が飛んできて、お前、今日は示達式の日だぞと言う。
直ぐに、事業部長に挨拶に行けと言う。
私は、事業部長の部屋に行くと、事業部長は、
「佐藤、お前は課長になりたくないのか?もう示達式は終わったぞ。」
と言って私を追い返した。
私は、少々、あのイラン人が恨めしかった。
そんな時、電話がかかって来た。
あのイラン人からである。
「Mr.SATO,価格を検討してくれ」
と、まだ、シツコクやってきた。
彼らの粘っこさを嫌というほど痛感した。
しばらくして、事業部長から呼び出しがあり、課長の示達を受けた。
どうも、私の上司と事業部長たが打った芝居だったようだ。
このミッションが帰って半年も経たない内に、イランの販売代理店のアルファイ社長から連絡を受けた。
どうも、春のミッションの話がまだ生き続けているようで、至急来てくれと言う。
私はこのアルファイとはまだ会ったこともないが直ぐに行くことにした。
真夜中にテヘラン空港に着くと、アルファイが出迎えに来てくれていた。
空港周辺及び町にあるホテルまでの道は全体的に暗かった。
ホテルは、シャーの時代にアメリカ資本で建てたものをそのまま利用していた。
私が泊まったホテルは昔のヒルトンホテルだったと思う。
6年か7年前にイラン革命が起こり、当然アメリカ人の他ほとんどの外国人は逃げ出した。また、イラン人でも金持ちは国外に逃げ出した。
当時の東芝の販売代理店の社長及び家族も逃げ出した。
その時、エンジニアであったアルファイは会社を作り、販売代理店としてスタートしたのだ。
ホテルのそこここに、ヒルトンの名前が残っていた。
朝食のためコーヒーラウンジに行くと、髭面のむくつけき男達がコーヒーや卵料理を運んでいた。とてもゆったりと朝食を楽しむ勇気などない。
アルファイが車で迎えに来てくれ、我々は保健省に向かった。
そして、広い会議室に通された。
初めは5〜6人が出てきて挨拶した。雑談をしていると、何やら空気が変わり、坊さんが数人を引き連れて部屋に入って来た。その数人の中に、日本で会った男がいて、何やら坊さんに喋っていた。
「この正面にいる男がSATOと言って、なかなか頑固なやつ。一週間も会議をして、一銭も値引きしなかったやつ。」とか言っていたのであろう。
その坊さんは、
「遠路はるばる、、、。イランは今、、、。病院の機材整備に力を入れているところです。レントゲン装置はドイツのシーメンスか東芝製のものを揃えたいと考えている。」
と説明してくれた。
後で、アルファイの説明を聞くと、あの坊さんはホメーニ氏に近い人間で、ビジネスは全く分かってはいない。
実際に分かっているのは、これの下にいる人間である、と言う。
その坊さんの話が終わると、何やらザルに果物や野菜を入れて持って来た。
どうも茶菓子のつもりらしい。
ザルの中にはブドウやイチゴなどの果物やキュウリなどが入っていた。
私は食べやすいブドウを取った。洗ってあるとは思えないけど、仕方なく取った。
ところが、坊さん達はほとんどキュウリを取ったのだ。
私は、不躾にもキュウリは野菜ではないか?と聞くと、イヤイヤ、ここのキュウリはみずみずしく、果物なのだ、とかじり始めた。
会議と言っても、みんなセレモニー。ナンバー2の男と裏で話しを詰めて終わり。イスラムの国はみんな同じ。
表向き、公正を唱えているところほど怪しい。
昼は町のレストランでアルファイと食事を取った。
レストランは綺麗で良かった。
アルファイが言うには、テヘランの典型的なランチをご馳走すると言う。
出てきたのはカレイライスの皿よりちょっと大きめな皿にライスが普通に入っている。
その上に玉ねぎの輪切りが2〜3本載っていて、その真ん中に生卵とバターがある。それだけ。
正に卵かけご飯に醤油ではなくバターを使うというもの。
その他、副食が出て来たかどうかは記憶にない。
午後はアルファイのオフィスに行って作戦会議。4時頃に終わると、アルファイは、今日はこれで終わりと、4〜5人居たスタッフを帰らせた。
そして、おもむろに、鍵のかかった書棚からウイスキーと二つのグラスを取り出し、乾杯しようと言うのだ。
すなわち、この国ではアルコールはご法度。そのことはスタッフに知られることも危険なのだ。
ここはイランだと改めて感じた。
夕食はアルファイの家に招待してくれると言う。
ホテルでシャワーを浴びて、アルファイの来るのを待つ。
アルファイの家は特別に大きくて立派と言うほどでもない。奥さんは医師で、父親は元は弁護士。三人の子供がいる上流階級のようだ。
ワイワイガヤガヤとやっていると、夜の8時過ぎた頃、玄関からチャイムがなる。
すると、空気が変わる。奥さんはヒジャーブ(スカーフ)を被り、玄関に出る。玄関には宗教警察がいて何やら尋問をしている。
何もなかったようで、安心した顔で部屋に入って来た。
一般的には、玄関はどの家でも、外と言われていると言う。
翌日は、保健省が指定した病院を2カ所見に行き、後はバザール見学。
翌日は完全フリーとなり、カスピ海に降りようと言う。
テヘランは海抜1,200メートル近くあり、カスピ海に降りるためには、相当な山を超えて行かなければならない。
山を降りる途中、いくつかの若者グループを見かけた。
彼らは、ラジカセを持って、大きな音量で音楽を流し、踊っていた。若者の発散の場である。
カスピ海近くになると、乾燥した空気が湿っぽくなっていった。また、風景を見て驚いた。
ここは正に日本の田舎。
わら屋の家。稲の田んぼ。柿の木もある。
カスピ海では多くの子供達が水浴びしていた。
だが、日本と違うところは、女の子と男の子が同じ場所で遊んでいないのだ。
砂浜からロープがかなり先まで張ってあり、それで、男と女の泳ぐ場所が決められている。
こんなことをやるホメーニには加担できないとつくづく感じた。
あちらこちらでイランを知り、イランで生きる辛さを肌で感じた。
実はこのアルファイとはこの先、長い付き合いとなるのだ。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください