1992年、日本のバブル経済が弾け、隔月発行される東芝社報には多数の退職者が載るようになってきた。しかも、その数が毎回増えていった。
毎月、課長や部長は大会議室に集められ、第二の人生は真剣に自分で考えるようにと言われていた。会社としては、今までのように面倒を見る余裕などないと露骨な言葉で説得される。
それでも、温室のようなところで育った甘ちゃん達は、まあ、何とかなるだろうと考えていた。
第二の人生のために何とかしなければと昼休みの話題には出るが、特にアクションを取る者は居なかった。
我々の所属する医用機器事業部は、東芝の中でも毎年着実に利益を出している事業部として評価されていたが、特別優遇されるということはなかった。
一方、医用機器事業部は他の事業部とは異なり、毎年の医学の進歩に合わせて新技術を取り入れた新製品開発が要求された。だから、開発費をケチることなどできなかったのだ。しかし、東芝のトップはそんなことなどお構いなし。上納金をきっちり出せと迫るのだ。そこで、従来から、開発費などの確保のため、帳簿上で手心を加えていたという。
そのことで、当時の東芝トップ、特に財務部長などは苛立っていたようだ。
経済状況が悪くなればなるほど、それぞれの事業部の業績のチェックが厳しくなり、とうとう、メスが入れられたのだ。
すなわち、栗山および住田体制が壊されてしまった。栗山の交代として東芝のトップはクソ真面目の伊藤を送り込んで来た。
この伊藤は今、医用機器事業部で何が起こっているかを東芝トップに忠実に御注進するタイプだったのだ。ただし、この男は医療の業界は全く知らない男。そんな人間が、ちゃんと経営できるわけがない。
結局、伊藤が来て、利益を正直に報告する。そのことで研究開発費は極端に減らされ、製品競争力を無くして行くのである。
栗山がいなくなったことで、増井の神通力も同時に失われていった。
また、前章で書いた北京の東芝パーティも伊藤の功績として報告したのだ。いいとこ取りを伊藤にされてしまった。
伊藤と増井の関係も決して良くはなかった。伊藤は裏工作をするようなタイプではないし、増井のタイプは好きではないと思った。
増井は当時私によく言っていた。
「佐藤さんは、伊藤に気に入られているよ。僕は全く駄目、、、」と。
彼がそう言う背景には、伊藤が医用機器事業部長として来て一年目に、私が部長に抜擢されたからであろう。先にも書いた通り、伊藤が私を評価しているのではなく、誰かが私を推挙して、それに伊藤が従っただけなのだ。
実は、増井は状況から考えて、自分の後継者に私がなるだろうと本気で思っていたようだ。そうしたら、自分はどこかに飛ばされるか退職を勧告されるのではないかと予感したのであろう。
狡猾な増井は裏で彼なりの手を打ち始めた。
裏工作を続けながら、元来酒好きとカラオケ好きで、彼の銀座通いは連日連夜。
そして、当然ながら出社は昼前。
伊藤は、増井を面と向かって怒る勇気はなかった。逆に増井は事業部長室の扉を閉めて、二人の闘いを始めたらしい。具体的には、汚れ仕事は俺がやってやるから手を握ろうと迫るのだ。増井は伊藤が脅しには弱いと踏んで、体を張って脅したのだ。
何故、そんな話を私が知っているのかと言うと、全て彼が私に喋ったから。
彼は基本はオープンを装いつつ、肝心のことは決して言わない。
今回のことで、増井は伊藤に次のように話したのだ。
これからは、安型レントゲン装置を開発し、後進国に販売する必要があると提案したのだ。このことは、後進国の代理店が長い間、東芝に要求していたことで、東芝はそれをしてこなかった。このことが出来るのは、レントゲン装置のことに詳しく、しかも、代理店の連中を良く知っている佐藤しかいないと迫ったのだ。
この業界を知らない伊藤はこの策略にまんまとはまってしまった。
こうして、自分の後任である私を外にとばして、自分はポジションを守った。
本人はまさにそう思ったであろう。しかし、そうは問屋が卸さなかった。
私が移動して半年後に増井の後任として綱島が決まった。
結果として、増井はラインから外れてしまった。
増井はその後も復帰を画策したが、それも叶わなかった。
そして、この綱島こそ、後の東芝の社長になる人である。
私はレントゲン部に移動はしたが、移動の時点で、私は東芝を辞めることを決めていた。
私には、既に東芝にいる理由がなくなっていたからだ。
私は2000年の6月末に東芝を退職した。
そして、増井は私の記憶では2004年に退職し、予定通り山東社に副社長で入ったと聞く。
私は増井が孫仁を選んだことは今でも間違いだと思っている。
サンジャパンの三人と組んでいたら、もっと中国オペレーションは成功していたと思う。
当時のサンジャパンは本当に小さな会社だったが、今では成功をおさめ、こんなサンジャパン(現在は株式会社SJホールディングス)になっている。