横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

DR白壁彦夫の名前をご存知であろうか?

ご存知ない? それでは、胃X線二重造影法という言葉は? 一般的には聞いたことはないでしょう? それでは、胃のレントゲン写真で、立体的な写真は見たことはありませんか? では、バリウムを飲んでレントゲン写真を撮ったことは? これは経験した人はいるでしょう。この撮影法を確立した先生です。この撮影法は日本だけでなく世界的に普及しているものなのです。

そもそも、白壁先生は千葉大学医学部の講師の時にアメリカの医学雑誌に投稿して評価を得て、日本の放射線学会が改めて先生を評価したのです。

実は私が初めて、白壁先生と会ったのは、1986年、トルコのドクターが東芝のCTを見るために日本に来た際、どうしても白壁先生に会いたいと言うので順天堂大学に連れて行った時です。その時、トルコのドクターはさも親しげに白壁先生に話しかけたが、先生の記憶の中にはどうもなかったようでした。それでも、そのドクターは、トルコの放射線学会に是非来て講演をしてもらいたいとお願いしたのです。白壁先生は成り行きから約束してしまいました。

それから一年後、そのトルコのドクターから手紙が白壁先生の所に届いたのです。

私は直ぐに先生に呼ばれて、「佐藤さん、弱りました。一度約束したからには、行かなければならないと思っているんですが、、、」と言われた。

私も、流れから、「先生、行きましょう」と言わざるを得なかった。ここから、先生との付き合いが始まったのです。

トルコに行ったのは九月だった。先生は既にヨーロッパへ行っており、ロンドンで落ち合った。そこから、イスタンブールに飛び、そこで一泊しました。先生は久しぶりにうどんが食べたいというので、ホテルの日本料理店で夕食を取りました。翌日、500キロメートル南のイズミールに飛びました。

イズミールはローマ帝国の都市。トルコでは、イスタンブール、アンカラに次ぐ大都市であり、日本の京都的存在です。

イエス キリストが処刑された後、弟子のペテロが聖母マリアを連れて逃げ出し、このイズミールの山奥に隠れ住み、ペテロは山の麓に教会を建てて、聖母マリアの最期まで見守ったという土地です。また、皇帝アントニウスがクレアパトラと逢瀬を楽しんだ港町でも有名です。

白壁先生と聖母マリアの住んでいた400メートルの高さの頂上付近の小さな小屋を訪れました。そこには観光客が沢山来ていましたが、不思議に静寂でした。

また、イズミールはエフェソスの遺跡で有名な所です。エフェソスの遺跡はローマ帝国時代の遺跡で、石でできたかなり大きな円形劇場は残っていたが、奴隷市場や公衆浴場はほとんど崩れ、修復が予定されているという表示がありました。

先生のイズミールの講演が終わると、何故か日本の駐トルコ大使夫妻も招かれていて先生とトルコのドクター数人と一緒に昼食をとりました。後で分かったのですが、白壁先生は、外交官待遇が付与されていて、先生が一言外務省に言うだけで、数千万円の予算が訪れた国の大使館に付与されることになっていたようです。だから、大使は白壁先生にぞんざいな態度は取らなかったそうです。なるほど、今まで私の見てきた大使とは思えぬほど抑えた態度だった様に思えました。

その昼食会から、ホテルに戻り、3時になると、私の部屋に電話があり、「佐藤さん、三時のお茶にしませんか? 私は、いつものようにミルクティーとチーズケーキにします。」と言って来ました。どうも、それが先生の日課のようでした。

白壁先生といて、不思議なのはあまり蘊蓄を語らず、自分の感じたこと、経験をふと思い出したように語るだけで、私自身もリラックスができました。私が、先生の学生時代の話題を持ち出すと、千葉大の第一内科に所属していた時の話を思い出しながら話してくれました。

先生は医学部の古い体質を嫌い、教授達と闘ったそうです。教授とはいつも張り合ったそうです。そのエピソードの一つを披露します。

ゼミの時、白壁先生はドイツ語で書いた論文をみんなの前で滅茶苦茶にけなされたことがあったそうです。先生は癪に触り、次のゼミで再度ドイツ語で書いた論文を提出したそうです。ところが、それもケチョンキチョンにけなされたのです。そこで、『この論文は教授、あなたが書いた論文ですよ。お忘れですか?』と返したそうです。それからは、この教授から徹底的に締め出しをくったのは当然。その後、全ての研究論文はこの教授には見せず、独自で学会に提出したというから、その徹底ぶりはすごい。しかし、こういうやり方は日本の学会には通じず、先生の論文は結局全て認められなかったそうです。だから、白壁先生は論文を海外の学会に直接出さざるを得なかったのです。

先生曰く、「私は道場破りみたいなスタイルで海外のドクターとコンタクトをしたのです。」

そんな白壁先生は千葉大を飛び出し、順天堂大学に移ったのです。先生の後輩たちの多くが飛び出したそうです。

順天堂大学にいた時は、全国の若い医学生が先生の元で勉強したいと集まって来たそうです。そんな若い連中を育てたり、海外に研究論文を出させて、発表させるには金がいる。そんなところから東芝と繋がりができたとか。

トルコからロンドンまでのフライトで先生は雑誌を見ながら、ノートにデッサンしていました。私は、素朴に聞いてみました。すると、先生は、「佐藤さん、ピカソは凄いよ。三次元の物体を二次元の紙の上にどう表現すべきかを研究した第一人者です。私も人間の内臓をレントゲンフィルムに上手く表現すべきかを研究してきました。その私がピカソの絵を見るとなるほどと感じるんですよ」と説明してくれました。

その後、先生とはインドネシアにも行きました。インドネシアのセレベス島のウジュンパンダンという町でインドネシア放射線学会開かれ、そこに呼ばれたのです。

ウジュンパンダンは都会ではなく、静かな海のある町。道路脇には大きなヤシの木が植えてあり、道路も整備されていました。と言っても、車が多く通る訳ではない。観光客用のタクシーがあるだけです。

ところが、ここは太平洋戦争では日本軍が占領したところで、海に向かって砲台がいくつもあました。町の中には大砲の残骸が幾つもありました。ここでも午後のティータイムがあり、チーズケーキとミルクティー。話題はいつの間にか、先生の戦争体験を聞くことができました。

「自分は太平洋戦争が始まった時はまだ学生でした。その時、陸軍軍医学校(今の新宿区戸山町にあった)にいた時期があり、そこでは細菌の研究をしていました。人を実験材料にしていろいろ実験していることは知っていました。例のマルタの問題ですよ。私は幸い専門が違っていたので関わりを持ちませんでしたが、友人は関与させられていました。」

私は遮って、「そんなことを言うと報道がわんさか来ますよ」と言うと、先生は「だから、日本ではそんなことは絶対に口にしません。それから、私は長崎や広島にも回されました。広島にいた時、終戦を迎えたのです。その時、私は被爆しました。

私は、「被爆されたのですか?」と聞くと、先生は、「そうです。しかし、私は酒やウィスキーが好きで、だから、救われたと本当に思っているんです。アルコールを飲んでいるとがん細胞は抑制されると私は本気で信じています」、と笑いながら言っていたのを覚えています。

先生と、夜のパーティの帰り、ホテルまで2キロメートルくらいの距離だったと思いますが、そこにベチャが待っていたので、ベチャに乗りました。べチャとは、お客が前に座って、漕ぎ手が後ろの三輪車タクシーのこと。乗り心地がとても良く、先生は、「佐藤さん、ベチャはいいね❗️」と言いながら、先生は楽しそうでした。今思えばとてもいい思い出です。

日本に帰って、私と先生の関係が全く変わりました。

当時、先生は茅場町にある都立の病院を任されていました。先生はその病院のスタッフ用台所を茅場町レストランと名付けて、私が訪問すると近くの焼き鳥屋、おでん屋などからビールのつまみを買って来てパーティです。そこに若手の研修医も呼んで、「この人が東芝の佐藤さん。これから、あなた方はお世話になるから、ちゃんと名刺を渡して」といった具合に紹介してくれました。時にはその場で、「佐藤さん、お願いがあります。彼は※※出身で※※が専門です。彼を海外の学会に連れて行って欲しいのですが、、、」と具体的に言われることもありました。先生はメーカーを使って若手研修医を育てようと気を遣っていました。そんな時は、近くの鯛焼き屋から鯛焼きをお土産に用意してありました。

また、ある時、先生にこんな質問をしたことがあります。

「私の友人の奥さんが東芝病院で健康診断をしたところ、乳がんが見つかりました。そこで、その医者は、直ぐに切りましょう、と言われてその奥さんはとてもショックを受けたそうです。直ぐに切除の必要があるのでしょうか?」

すると、先生はもちろん、直ぐに切除すべきです、と有無を言わさず厳しい言葉が返ってきました。私はしつこく、「乳房は女にとって、」と言うと、先生は、「何を言っているんですか❗️これは命の問題です」、とキッパリ言い切ったのです。その後で、先生は、こう付け足した。「これは少し言い過ぎました。『いい医者の条件は芸者、役者と同じ。演技が上手くなくては駄目』と言います。手術がどんなに必要でも、本人の同意が必要です。本人に納得させるための演技が必要なのです。我々は5mmのガンを見つけようとしています。5mm以下なら100%命が助かるんですよ。」と説明してくれた。

1994年6月、トルコ放射線学会を今年9月にカッパドキアで予定しているから白壁先生にはもう一度、おいでいただきたいという手紙が届きました。先生は私に電話で、相談があるから来てくれと言うのです。私は早速、茅場町に行ってみると、先生はこう切り出しました。

「先月、肺の調子が悪いので、私の弟分の市川君(当時の国立がんセンターのセンター長)に見てもらったところ、肺がんから膵臓に転移していることが分かったのです。多分、私の命は今年までの命だと思います。だから、身辺整理をしなければならないと思っています。しかし、トルコへは約束ですから行かなければならないと思っています。私の最後の出張になると思います。佐藤さん、一緒に行ってもらえませんか。くれぐれも、私のガンは内密に願います。」

この時、私はどんな言葉を返せばいいか分かりませんでした。

トルコには1994年の9月初めに入りました。イスタンブールで一泊。それからアンカラに飛んで、そこからカッパドキアまではハイヤーで行きました。途中、休憩を入れながら、4時間位走ったでしょう。9月というのにその年はとても寒かったことを覚えています。カッパドキアの中を少し歩きましたが、先生が辛そうなので、直ぐに切り上げホテルに入りました。カッパドキアの風景はとてもヘンテコなもので、大きなキノコが何本も立っているようでした。トルコのドクター達にも先生の病気のことは一切せず。しかし、先生の一言一言の英語の中には、最後の別れがチラリと入っていました。

先生はトルコ軍の行進曲を是非聞いてみたいとの依頼を出発前に聞いていたので、イスタンブール到着時に予約しておきました。カッパドキヤからイスタンブールに戻ると、二人でそれを聞きに行きました。観光客はあまりいなくて、先生と私は心ゆくまで聞くことが出来ました。実際に軍の行進を見ながら、行進曲を聞くとトルコ軍の迫力を感じました。

「佐藤さん、あの行進曲は実にいいねェ」とニコニコ笑いながら話してくれました。

帰りのフライトでは先生はファーストクラスで、私はビジネスクラスゆえ、話をすることはできませんでした。

成田に着くと、

「佐藤さん、本当にお世話になりました。私はこれから身辺整理をするために、病院にはもう行きません。多分、12月頃になると、体が傷み始めるでしょう。そうすると、家内や子供達に迷惑をかけることになるから、多分、市川君のお世話になるかと思う。佐藤さんのことゆえ、病院に見舞いに来られると思うが、それはお断りします。最期だけは家族と共にいたいから。そう言って、自分が事前に申しつけていた自分の車に乗りこみ手を振って、別れました。

その年の12月の半ばになると、事業部長の栗山が私のところに来て、「佐藤君、白壁先生が今どこに居るか知らないか?」と聞いて来ました。「不思議なことに、白壁先生はここ2〜3か月病院にも来て居ないようだから、お前なら知っているかと思って、来てみたんだが、、、」

私はそこで、白壁先生が多分、がんセンターにいるのではないかと栗山には言いました。

栗山は12月29日、白壁先生が亡くなったことを私に知らせに来ました。

私は静かに手を合わせ、先生の冥福を祈りました。

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