横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

フミオ事件が終わりを告げる頃、私に驚きの話が飛び込んでくる。

高校では生徒会活動というものがある。受験の関係上生徒会役員の任期は二学年の十月から翌年の九月まで。だから、役員改選のタイミングが二学年の九月である。しかし、我々にとっては大事な時期でもあるし、我々のクラスからは誰も立候補する者はいなかった。どうも他のクラスからは立候補している者がいたが学校側はあまり良くは思わなかったらしい。二年生になって、我々の担任は代わった。あの渡辺は不評を買ったのであろう。縄田という当時は40歳くらいの先生。あまり口数は多くなく、ブスッとした先生であったが、話せば割と理解してくれる先生であった。その縄田が誰か生徒会をやってくれと頼む。しかし、誰も手をあげる人間はいなかった。そんな時、陰でこっそりと動いていた奴がいた。

ある日、縄田が生徒会役員の立候補を促す時間を持った時、裏で話していた連中が手を上げ始めた。「俺は副会長に立候補する」と手を挙げたのが中部という男。続いて会計、書記など数名が手を挙げてきた。私は何が起きたのか初めは理解ができなかった。そして、最後には空席の会長に上村という男が手を挙げた。

ところが、中部と上村は犬猿の仲。そこで、中部は何人かの友達と一緒に私のところにやって来て会長に立候補してくれと頼むのだ。私の親父が私に言ってきたのは自分からやるやるとでしゃばるな。そのかわり、頼まれたらやってやれという教えである。こんな状況ではじゃあ立候補しようと言わなければならないところだが、私には強く心に秘めたものがあったのだ。二学年の終わりまでに模擬試験で京都大学の合格率が75%以上でなければ大学に行くことはやめようと考えていたのだ。9月の段階ではその段階には達していなかった。ただし、勉強の成果は徐々に上がりつつあった時である。中部達には一両日待ってくれと言ってその日は帰ってもらった。しかし、中部の思いは強かった。高校時代を楽しく有効なものにしたいと勝手に思っていたのだ。結局、私は彼らの要求を受けた。すると、上村は降りた。実は中学3年生の時上村は生徒会長に立候補した時私が応援演説をしたのだ。それで今回は私が立候補するなら自分は応援に回ると言ってくれた。

そんな経緯もあり、選挙の結果、私が会長となった。副会長や会計、書記なども予定通り我々のクラスのものが選ばれた。生徒会活動は予想以上に大変な活動となった。長髪問題や女性のスカートの問題等、学校の規定を見直すべく生徒総会まで開いた。私と中部は校長の自宅まで訪問して談判をした。また暮れの年末の募金も相当頑張った。おかげで私の勉強時間には相当影響があった。

でも、二学年末の模擬テストでは私が私自身に課していた目標は突破した。

フミオに付いた悪魔も振り払った親父に次の課題が投げかけられた。三年生になった9月に三者面談があり、親父が学校に呼び出された。担任の縄田先生が親父と私に向かって切り出した言葉は、「佐藤は九州大学くらいにするか?」というものだった。それを聞いた親父はビックリしたらしい。まさか、自分の息子が国立大学?それも旧帝大の九州大学?と信じられない思いだったであろう。家では私は家族にはほとんど高校の成績は見せていないので、家の者は全く知らなかったのだ。親父は、恐る恐る確認した。「九大がとおるのですか?」先生は、「今のところでは大丈夫でしょう。しかし、それも、英語、数学と国語の三教科の成績で判断しているだけです。理科と社会がこれから伸び流という条件です」と答えた。私はその意味がよく分かっていた。

家に帰るとその話題が親父の口から出た。受験してみろと簡単な一言だった。そして、ただし一度だけという条件が付加された。親父は、娘二人は中卒で、息子達にも高校までしかやってやれなかった。一番下の私だけ大学に行かせることは他の子供達には悪いと思っていたことだろう。私はその一言で救われた。親の口から大学に行けと初めて言われたからだ。

その翌年の正月にこの話が再び持ち出された。兄姉が集まった正月の晩、親父の口からみんなに謝らなければならない話があると切り出した。

みんなにはちゃんとした教育を与えてやることが出来なかったことを許してくれ。ところで、栄次には大学受験をさせることにした。みんなにはそのことの了解を取りたいと思っている。

突然、こう切り出された兄姉は、無論承知であることを告げたが、親父に謝られたことにびっくりした様子だった。こんな時には女の方が能弁になるらしい。そんなことを言われてふと昔のことを思い出したかのように、涙声になっていった。次男の秀夫も親父に一言言って、私には、「とにかく頑張れよ、応援しとくから。ところで、どこを受験するのか?」と聞いてきた。私はその雰囲気の中では一言も声が出なかった。親父の涙声と子供達に詫びることなど思いもしなかったため。私は、その場から居れなくなり、階段を駆け上がり、机の前で泣いていた。この時に、私は地蔵菩薩に抱き抱えられ新たな人間として生まれ変わったような気がする。素晴らしい1日だった。

私は親父から一度限りの受験のチャンスをもらい、そこから考えた。絶対に一発で合格しなければならなかったので大が選びに苦慮した。より確実な道を選び、国立大学一期校は岡山大学にして、二期校は山口大学にした。

岡山大学を受験したときは、僧侶のように黙想し精神を落ち着かせた。そして合格した。その発表の後山口大学の受験準備に入った時、親父が来て、お前は何をしているのかと私に聞くから、私は普通に山口大学の受験に行こうと思っていると言うと、親父は、「お前は岡山大学に行くつもりはないのか?もし行くつもりなら、山大の受験はやめろ。お前のために一人が不合格になるかも知れんから。」

私はふと我に戻った。自分の軽率さを悟った。

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