横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

禅僧 馬祖道一

中国唐の時代に有名な禅僧で馬祖道一(ばそどういつ)がいた。(708年に生まれ、80歳で没す)

この坊さんは、「虎のごとく見、牛のごとく動く。舌を伸ばせば、鼻の上までのばし、足の裏には紋があって字を書く」
と言われていて、実に魁偉な容貌だったと言われている。

この馬祖がある日、外で座禅をしていた。
そこに師の南嶽が来て、問答を始めた。
「お前は何をしている?」
「座禅をしています。」
「何を思って座禅をしているのか?」
「もちろん、悟りを開いて、仏になるためです。」
南嶽は、やおら、馬祖のそばに座って、傍らに落ちていた瓦のかけらを拾って、石の上で磨き始めた。

今度は馬祖が問う。
「何をしておられるのか?」
「見ればわかるじゃろ。わしは瓦を磨いておる。」
「磨いてどうなさるのですか?」
「磨いて鏡にしようと思ってな。」
「でも、瓦をどれだけ磨いても、鏡になりませぬ。」

この馬祖の言葉を借りて、南嶽はこう言った。
「お前はどうして、座禅をやって仏になろうとするのか?座禅をしたって仏にはなれんよ。」

馬祖は、この時何を悟ったのであろうか?

南嶽はこう言いたかったのだ。
我々凡夫が座禅をして、仏になろうとするのは、瓦を磨いて鏡にするようなものだ。
そんな考え方は間違っている。
そうではなくて、我々は初めから仏なのだ。
仏だからこそ、修行をして仏になれるのだ。
「仏が修行をしていると思って修行をせよ。」

仏と凡夫を対立的にとらえてはいけないのだ。