私は番頭役を務めていたわけで、私が家にいれば、その間、私の代理をする人が必要だったが、間に合わせに雇ったものに、慣れぬ仕事は任せられなかった。 私は、日田市の木材組合には、時々顔を出していたので、組合からも金を借りようと思っていた。金は、ま …
私は番頭役を務めていたわけで、私が家にいれば、その間、私の代理をする人が必要だったが、間に合わせに雇ったものに、慣れぬ仕事は任せられなかった。 私は、日田市の木材組合には、時々顔を出していたので、組合からも金を借りようと思っていた。金は、ま …
身動きとれず、二人で悶々とした日を送っていた。子供達は久しぶりに、両親が家にいるので喜んでいた。 その時、一つのことが私の頭に浮かんだ。 「今のうちにダンスを習っておこうかしら。こんなに毎日ブラブラしていたら、時間がもったいない。」 その頃 …
この道路に普通のトラックでは、十分荷を積むことはできない。いろいろ考えた末、国鉄に全輪駆動という、輸送用の大型トラックがあることを夫は思いつき、これを借り受けることが出来れば、助かるということを考えた。 「国鉄が高価な車を、とても一市民に貸 …
山奥の製材所に設備するには、大変な労力と経費を要した。建築用の木材は、かつがつ伐採し、木を利用した。他の資材は総て八女から運ばねばならなかった。一番大変なのは食料だった。 これだけの人数の食料は勿論、ほとんどの物資が統制されているので、勝手 …
昭和二十五年の或る日、山の仲介人が、一つの大きな杉山を勧めに来た。 「こんな立派な木が、これだけまとまっている山はまたとなかですばい。是非見て下さらんか。」 仲介人あ、山の図面を見せたり、木数などを書き込んだ調査表を見せ、詳しく説明した。 …
昭和二十一年に、お手伝いに来てくれた律ちゃんは、とても野菜作りの名人で、工場の裏の畑に何でも作った。茄子も胡瓜も里芋も、とてもよく出来た。 律ちゃんは母親を亡くし、叔父さんの養女となり、その義母もなくしたりで、苦労も多かったと思う。子供たち …
昭和二十年の八月、突如詔勅が下がり、終戦を迎えた。 国民皆大きなショックを受けた。勿論、敗戦の悔しさはあったが、兎に角、戦争は終わったという、ほっとした気持ちもあった。 しかし、一方では、アメリカ兵が上陸して来て、女や子供はむごい目に遭うと …
義父は二月のころから、胃が悪いと言い、近くの医院から、薬をもらって飲んでいた。それでも、次第に食欲がなくなり、衰えていった。久留米医大に診察に行くよう、みんなで勧めても、本人は大したことはないと言って、診てもらうことを拒んだ。 「どうも普通 …
昭和十六年から太平洋戦争となり、世はまさに戦時中だった。 昭和二十年5月に、三女澄江が生まれた。 この子は、胎内の時からよく動いていたので、男の子と思っていたくらいだった。勿論、男の子がもう一人欲しいとも思っていた。 戦争も長く続き、食料も …
無一文になった私たちは、これから先ずどんな方法で行こうかと話し合っていた。その時、私たちの仲人だった野中のおじさんが、 「おれの杉を伐採せんか。代金は製品を売り上げた分だけ分納すればよかけん。」 と言ってくれた。 私たちにとってこの話は、“ …