私が初めてブラジルに行ったのはブラジル担当をして、ニ年後のことである。 たまたま、その年の四月、元江商の人が部長として我が部に入ってきた。江商と兼松と合併した際に多くの江商の優秀な人が東芝に入って来たと言う。 東芝は、私の時も、入社社員数の …
私が初めてブラジルに行ったのはブラジル担当をして、ニ年後のことである。 たまたま、その年の四月、元江商の人が部長として我が部に入ってきた。江商と兼松と合併した際に多くの江商の優秀な人が東芝に入って来たと言う。 東芝は、私の時も、入社社員数の …
ブラジルで医療機器を売る際に、シーメンスやGEの競業他社はファイナンス付きを始めたという話が飛び込んで来た。言い換えれば、割賦販売である。 アメリカやヨーロッパや日本では当たり前の話だが、ブラジルのように、インフレ経済で、ブラジル通貨のクル …
事業部長が私に話をしてくた。 どうも、ポーランドのビジネスは受注出来なかったようだと。 そして、まもなく、私は工場に戻らず、輸出部に残り海外営業をやることになった。 担当も南アだけでなく、欧州向けのサービスパーツの出荷の担当となった。 する …
私の周りの多くの先輩は、私のことを心配してくれて、色々アドバイスをくれた。例えば、 もう、エンジニアには戻れないかもしれない。だから、断れ、とか。 ポーランドに行くんだぞ。俺なら行かない、とか。 彼らから見れば、上からの命令で、私は犠牲者だ …
突然、私に、海外に行く話が舞い込んだ。その話の内容はこうだった。 海外でも、一日人間ドックは話題になっているらしく、いきなりポーランドから引き合いが来たらしい。既に東芝の医用機器事業の販売会社はヨーロッパのオランダにできていたから、オランダ …
東芝の入社式のことは、あまり、記憶にない。 630人もの新入社員は、東大、京大他各県にある国立大学から来ていた。早稲田、慶応の他、有名私立からもずらりといた。 私は横浜の日吉寮に入った。 東芝という会社に入ったことより、各地からの人達と話が …
私が東芝を受けに行ったのは6月下旬。 あまり乗り気がしなかったことを記憶している。 午前中に物理の問題と英語。 物理の問題は2題。 熱くて止まっている球と動いて冷たい球について、物理的な違いを述べよという問題と20メートルのメジャーと双眼鏡 …
私は1968年に岡山の大学に入った。 半年間は、新しい生活に慣れるため必死だった。 初めの三ヶ月は親からの仕送りに頼った。だけど、それ以降は自活しようと考えていたため、大学の入学式の一週間後の夜には、キャバレーでお盆を持って、ビールなどを運 …