横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

娘達との旅行

今年を振り返り、家内とボソボソとお茶をしながら、話すのだが、何よりも、無事に一年を終えることが出来たことが、良かった、と。 家内は、そだねー、と返す。 私は、一年を振り返って、思うのだが、こんなことがありました。 娘二人が、我々夫婦と伊勢・ …

私の人生を変えた人 49 命をかけてカッパドキア

私の人生を変えた人 49 命をかけてカッパドキア

DR白壁彦夫の名前をご存知であろうか? ご存知ない? それでは、胃X線二重造影法という言葉は? 一般的には聞いたことはないでしょう? それでは、胃のレントゲン写真で、立体的な写真は見たことはありませんか? では、バリウムを飲んでレントゲン写 …

私の人生を変えた人 48  バブル経済崩壊と共に

私の人生を変えた人 48 バブル経済崩壊と共に

1992年、日本のバブル経済が弾け、隔月発行される東芝社報には多数の退職者が載るようになってきた。しかも、その数が毎回増えていった。 毎月、課長や部長は大会議室に集められ、第二の人生は真剣に自分で考えるようにと言われていた。会社としては、今 …

私の人生を変えた人 47  誰もが考えていないことが起こった

私の人生を変えた人 47 誰もが考えていないことが起こった

人生とは何が起きるか分からない、と思う。 増井が、孫仁を社長にしようと考えた時、私はもうお終いだと思った。 腐り切った山東社を替えて、サンジャパンと共にゼロからスタートすることを真剣に考えていた私は、本当にもう駄目だと思った。 しかし、増井 …

私の人生を変えた人 46  腐り切った会社

私の人生を変えた人 46 腐り切った会社

中国友好公司の山東社にはそれまでも東芝から若いスタッフを応援として送り込んできたが、彼らのほとんどが腐り切って会社の中で、やる気を無くしてしまった。 もう、こんな所には居たくないから帰してくれと悲鳴が飛んで来た。 その理由は、会社の方針があ …

私の人生を変えた人 45  中国も面倒見てくれ

私の人生を変えた人 45 中国も面倒見てくれ

中国ビジネスは1980年代に入り、鄧小平の改革開放路線に乗り一気に活発になっていった。 まだ、中国経済の方向がはっきりしないことから、東芝も手探り状態であった。 そこには中学卒上がりの福山の存在があった。 彼は、中国友好公司の山東社を使い、 …

私の人生を変えた人 44  こんな奴らも東芝にいた 増井篇

私の人生を変えた人 44 こんな奴らも東芝にいた 増井篇

増井という男は私より2歳年上。 明治大学法学部卒で、東芝医用機器事業部玉川工場生産管理に配属されたそうだ。 私が増井と出会ったのは、私が国際部に移動して数年後だった。 増井は本社の放射線の生産管理という仕事で会ったのが初めて。私が納期の確認 …

私の人生を変えた人 43  こんな奴らも東芝にいた 横嶋篇

私の人生を変えた人 43 こんな奴らも東芝にいた 横嶋篇

東芝には、いろんな人間がいたが、どうしてもこの二人は特筆すべきである。 一人は横嶋という男。多分、私より4歳は上かと思う。 私が、北米担当になるというので、メキシコ出張の帰りに、ロサンゼルスにある東芝アメリカ(TAI)の本社に寄った時、総務 …

私の人生を変えた人 42  砂漠でキャビア

私の人生を変えた人 42 砂漠でキャビア

サウジアラビアの新規代理店作りのため、エジプトのラカーとサウジアラビアに入る。 お供として、木曽さんとラカーの有能なスタッフ二人。 この木曽さんとは日商岩井の新入社員の時、東芝に挨拶に来て私は初めて会った。 日本人離れした顔立ちで、東芝の若 …