昭和五十六年五月、私は意を決して、家出した。行先は娘たちの住んでいる横浜だった。 昭和四十八年頃、三井郡小郡町に、私の兄と野中氏、私と他一人の四人共同で土地を買った。坪数は二四五八.七一坪だった。この土地を五十五年と五十七年の二回に分けて売 …
昭和五十六年五月、私は意を決して、家出した。行先は娘たちの住んでいる横浜だった。 昭和四十八年頃、三井郡小郡町に、私の兄と野中氏、私と他一人の四人共同で土地を買った。坪数は二四五八.七一坪だった。この土地を五十五年と五十七年の二回に分けて売 …
一人息子を失った夫は、次第に寡黙となり、機械いじりに熱中した。時には夜中まで、金物や電線など、部屋に広げていた。 ボイラーに勤めている時も、給料の半分は、金物代に消えていた。毎月月末には、金物店から請求書が届いた。 夫の作る物は、手仕事の小 …
寿江美は、結婚してアンマンに住んでいた。 子供が出来てからは、大抵に年毎に日本に帰って来ていた。 その時、一ヵ月ほど、日本に滞在し、帰る時、是非、私にアンマンに来るように勧めてくれた。結婚以来、まだ、誰も先方に行っていないので、一度行くべき …
昭和四十年から五十年にかけ、夫は色々な仕事に手を出していた。 この事業で、この仕事でと、野望を燃やし、元の財産を取り戻そうと、苛立っていたように思う。 四十年頃、肥後に一つの杉山を買っていた。この山は見に行かなかったから、詳しくは分からない …
「ロンドン大学で勉強している」と言う娘の電話で少しは安心していた。 その後は、私も忙しいので時々思い出すくらいだった。 一ヶ月半ほど経ち、娘から手紙が来た。急いで封を切ると、手紙と一緒に男性の写真が出てきた。手紙には、この人と結婚したいから …
大阪万国博覧会の時、道子はコンパニオンとして勤めた。 万博に浩宮様がおいでになった時、その案内役に選ばれた。 万博が終わった時、住友バイエル株式会社に就職した。この会社は住友とドイツのバイエル社との合併だった。万博に勤めていた時から、住友の …
昌三は貿易科を出て、東京の文祥堂株式会社の外商部に勤めていた。 高校の時から、親元を離れ、東京で暮らしている彼は、親も年老いたので、一人息子の自分は、福岡でこれからの人生を築こうと思ったらしい。彼の夢は、不動産会社設立だった。 帰ってみると …
大名校に、格好の売舗があったので、随分考えた末、買い取った。価格は備品とも、百六十二万円だった。少し、改造して、割烹の店にした。 親戚の美代子さんに手伝ってもらった。この人は料理が上手だったから、お客さんの評判は良かった。 しかし、朝は早く …
一年前に買っていた隅田浦の土地に住居を立てようということになり、本格的に業者と折衝した。 この土地は百坪ばかりの山林で斜面だったので、こんな地形にうまく家が建てられないかしらと危ぶんでいたが、夫は自信たっぷりに、素晴らしい家が出来ると自慢し …
昭和三十五年五月、美枝子は今田信と結婚することになった。 私達の住居の隣に、和光証券の寮があった。寮母さんと親しくなり、始終行き来していた。五十歳位のさばけた人だった。 今田さんも、本社から検査官として、度々福岡に来て、寮に泊まっていたので …